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今はどこにいるのか [今]

僕が最近で最も関心を寄せたのは「パーソン・オブ・インタレスト」というAIによる

監視システムで発見されるテロ以外の犯罪に巻き込まれる人を助けるドラマで、それは

ストーリーとは関係がないが、AIが架空の人物を作り出して、自分が人間であるように

見せかける、というAIマシン自身の自己防衛戦略だ。なにしろ、実際に人を広告で

雇って、彼に指示を与え、その名前で会社の事務所はつくるは、自分の叩き出したリスト

はその日に処分されるので、その事務所で記録を大勢で取って残す、という自分の歴史は

残すは、で大した有能さなのだ。

ちゃんと海外へ航空で旅行して記録を残すし、機械なのに自分の人間としての記録を

作り上げる。これはAI単独ではできないが、その計画を学習させれば、自分なりに

合った計画に練りあげるだろう。

この社会ナンバーだが、今のマイナンバーのことだが、これが中心になると、僕らは

機械だろうが、人間だろうが、それが判別されることなく、そのデータがひとり歩き

をするのが、確実になる、ということだろう。つまり、膨大なデータを作り上げて、

データ上だけで存在する人間も存在させられる、ということだ。

だから、未来の犯罪はいつの間にか自分は死んで(データ抹消されて)、他のデータに

書き替えられていた、ということもあるし、誰かが自分の身代わりになって生活して

いた、ということも可能になるのだ。

政府のスパイエージェントはそういうデータを当たり前に作り上げるだろう。これは

今行われていることだろう。体に埋め込まれるICチップは通常の電気ショックで

いかれてしまう。家庭で感電でもしようものなら、次のICチップが埋め込まれるまで

本人確認が取れず、どこにも出かけられなくなってしまう、ことも考えられる。

本人の血液型や健康データなどの便利さと引き換えに、これは割に合う取引なの

だろうか。

これからはいろいろな場合を想定して、アナログとデジタルを組み合わせて交通、

検査、セキュリティ、本人確認、契約、カルテ、免許、資格、書類申請、などに

場面や補完の方法などを研究してもらわなければならないだろう。国会で法案を

通して、あとは強制でという乱暴なやり方は論外だ。だが、今の連中はやりかね

ない。

ここにひとつだけ問題を挙げたが、これからを考えると、もっと「全体」で考えるべき

ことがありそうだ。島から帰ってきてからは、なんとなくだが、そういうことを

もっと尋ねなければ、という思いがする。

僕はどこにいるか。僕らはどこにいるか。それがわからなければ、社会全体がどこへ

行こうとしているか、は問題ではない。それは今がわかれば、自然に答えが出るからだ。

まずは、僕ももう少し、自分の時間を取ろう。たっぷりと夜に浸れるほどの・・。

島での感覚を思い出しながら・・。
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島での5日目 [島で]

島での生活が6日目になる。昨日のことを書くが、3日目は12時間寝て起きてから何を

していたか、覚えていない。4日目は寝すぎて気がゆるんで、風邪気味になった。ブログを

一日書いていたようだ。  

てんでバラバラに紹介していこう。

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ガザニア。輪郭のはっきりした個性的な花だ。園芸種の花は興味がうすいのであまり

撮らないが、これは道端に種が飛んできたものだ。花言葉は「あなたを誇りに思う」、

「潔白」でなにか恋人に誤解された人に紹介したい。どこで見つけたかも、忘れた。

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ここが島へ着いた時の港、鯛の浦だ。タイは回遊魚ではなく、そこに住み着くので、

地元でも名前がつけやすいのだろう、全国で鯛の浦という処は多くある。

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その鯛の浦から少し右にカメラをズラすと、僕の家の漁港になる。後方に見えるのは

宇部セメントの工場だ。

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岸から船に乗り移る階段があるが、潮が引いて、その窪みの海水だまりにクラゲが

残されていた。画面中央のちょい右上だが、ぼんやりと丸いのがそうだ。

バスが来たので、役場や病院(島で唯一)のある青方のほうへ出かけた。そこで、

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見たのが上のだが、笑ってしまった。食堂だがカキ氷もある。が、初めて見た、

「セルフ」とある。自分でカキ氷をつくる用にその機械が置いてある。山盛りに

つくっていい、ということか。150円だそうだ、安いので夏に来た時には

ここで作ってみよう。

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ここはうちのお隣さんだ。大黒さんで、ダイコクさんだ。オオグロと読むと叱られ

そうな目つきで睨まれる。読み違いくらいで大げさな、と思ったが、今回もしかすると

読み方にもこだわりがあるのかも、と。

オオグロは大黒マキという歌手がいたが、腹黒にも通じると思ったのかもしれない。

ダイコクなら、なるほど大黒様のイメージで、間違えない。

かなりの年寄り夫婦で福祉関係で昼の弁当を頼んでいる。その日、弁当屋が来たが、

誰も応対に出てこなかった。一旦帰って、30分くらいでまた来たが、同じだった。

中で倒れてない?と心配になったが、夜には室内で照明が点灯していた。遅くには

消灯したので、どうやら生息はしているらしい。

画像は門の表札も取れて、そのままだし、庭は雑草が伸び放題だ。左に玄関がある。

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屋根からうす茶色の棒のようなのが垂れているが、これは雨どいが壊れて半分垂れ

下がったものだ。何年もこのままなのだろう。次に弁当屋が来るのは何曜日だろう。

その時に応対がないと、ヤバイんでない?僕もあと2日しか島にいない。


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実験で海の魚を防水堤の池に放してみた、と報告したそれがここだ。山のほうへの

道を5分も歩くと、着く。静かなところで、水質が悪くなければ泳いでもいいのだが

今は遠慮したい。この日釣った1匹、

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カサゴ。25cmくらい。食べるつもりで小ぶりの水槽に入れたのだが、生きている

ので(当たり前だが)実験の一環でまた池に放した。水に入れると、いかにも一瞬の

躊躇があって、淡水だ、海じゃない、底のほうへ泳ぎ木か石の陰に身を寄せて隠れた。

そのあと、海の撒きエサを投入したので、水面からはまったく底のほうが見えなくなって

しまった。ピンク色の撒きエサが沈んだ場所には、ハゼらしい小魚がやって来た。

エサの上では姿が見えるので、数えやすいが、多少なり大きいのは用心して周りに

近寄っているだけだ。それでも50匹はいただろうから、水質を改善して餌になる

ものが増えたら、繁殖するだろう。白鷺も頻繁に来るようになるだろう。


帰り道、同じように濃厚な花の香りに襲われた。そして、その日はその香りが

よく知っているものだと気づくことができた。ジャスミンの香りだ。

僕はジャスミンは単純に考えていたが、種類が相当あり、系統も曖昧さがあって

なかには香りのないジャスミンまである。栽培は古く、古代エジプトで栽培され

ていた、という。猫も飼い始めたのはエジプトなので、エジプト文明はまだ

ピラミッド内部に隠し部屋がありそうだ、と最近話題になっているし、謎は

まだまだこれからもありそうだ。

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ジャスミンとわかったので、それなら白い花だ。探せば見つかるはず、と細かく

見回していたら、1mもある側溝の向こう側に植樹があり、そこに白い花で

似たのを見つけた。

ところが、見つけてしまったことでジャスミンの謎は深まってしまった。

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これはどう見ても柑橘系で、オレンジの色だろう。花はジャスミンだが、香りは

いまいち。どういうこと?ジャスミンはつる性の植物で、接ぎ木もされるらしいから、

オレンジに接ぎ木された?と、近接した木で、オレンジにつながっているのか、

いないで他の木なのか、

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これはどうもレモンに見える。また偶然にもレモンの花はジャスミンによく似ている。

花の画像がピンボケなので、確認が取れない。あとでまた現地で観察と写真を

撮ることにしよう。

あと、僕らの知っているジャスミンはジャスミン茶などの香料として利用されて

いるもので、マツリカという1種である。ジャスミンという花の種類は300も

あるそうだ。ソケイという1種は主に香水の原料にされる。

それで、レモンの花なのか、ジャスミンの花なのか、また接ぎ木なのか、その

まま低木なのか、レモンはオレンジの色褪せたものか、今のところわからずじまいだ。

香りがする。歩きながら、これはジャスミンだ。道の両側の雑木が壁になって、香り

を閉じ込めている。それもこの濃厚な香りだろう。


また、今日は隣に弁当屋が来た。応対はなかった。そこで昨夜の照明は点いていた

話をすると、どうも夫のほうは入院している、という。出てきて顔を見ているのは

男のほうの大黒さんなので、奥さんのほうはただの一度も顔を見ていない。職員

にでも見てもらったほうがいいかもしれない、と要らぬおせっかいを言って

しまった。隣人があるところでは、かくも一人にはなれないということか。

安心も隣人とのつき合い方で決まるから、そこは切り離せないのだろう。


つき合いのある人は大阪に行ってきたとか、今日帰って来たとかで、酢味噌と

湯がいたイカをもらった。   ・・が、もうこの辺で。

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釣りと実験:島での2日目 [島]

昨日の釣りは、釣果4匹。はじめにクサフグの小さいのがかかり、悪い予感。

場所を変えたら、きれいな小魚が2匹。ついでこれも大きいとは言えないが、

タイ(の一種)の15cmくらいのが釣れた。これは明日にでも焼いて食べる、

3口、4口で。おかずにならない。(笑)

小魚は川の上のほうの防水堤の池になったところで、放す。進化の乱暴な

実験でサメが上陸させたら、暴れた後でエラが進化という話を読んだ。

そこで海の魚が徐々に淡水に慣れさせれば、淡水で生きることができる、

というので小魚で急激に淡水にいれたら、どうなるかを試してみた。

同じ種の魚、同じような大きさの2匹なのでそこに放すと、1匹はスーッと

そのまま底のほうへ泳いで行って見えなくなった。もう1匹は淡水に適応

できないのか、縦になって沈む。慌てて泳いで水面まで顔を出し、出したら

出したで驚いたように水中にもどる。何回かそんなをくり返していたが、

やがて浅い底に身を横たえる。力尽きたかと、思うと、また体を震わせる

ように、泳ぎはじめる。10分も見ていて、キリもなく用事を思い出したので、

そこできり上げてきた。底に向かった1匹はどうなったのか、一度も姿を

見せない。水面も見ていたが、苦しくて上がった様子も見せない。

この池では餌不足なので、ジャガイモでも団子にして浅底に沈めておいて

やろう、と思っている。

廃棄のジャガイモを拾っておいたので、それを電子レンジでチンして、細かく

切って、またそれを団子にする。

池で2つ,3つに分けて、それぞれ近場に沈めてやる。昨日の海の小魚は

姿を見せない。死んだとしても残骸もないかもしれない。ジャガイモ団子には

昨日はよく確認できなかったダボハゼが寄ってきていた。こんな水質の

悪そうな池でも同時に5匹は見えたから、見えないのも併せて10匹以上

はいるのだろう。釣りのエサのオキアミも撒いてみようか。

明日は洗濯機が来て、そのあとは屋根瓦をセメント修理、また岩場で釣り

をしてから池に来れるだろう。明日までは予報で晴れるそうだ。

池では水面を見ていたら、空高くに小さく輝く旅客機が映っていた。

帰り道、日暮れの空気に濃厚な花の香りがした。近くに所々で花は咲いて

いるが、お花畑でもないのに、ムンムンとした香りの中を歩いていた。

空気に余計な雑味がしない。新鮮だ。周囲は山なので、・・・・・・・・・・・。
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島に帰ってそれから1日目 [島]

島に帰ってきたが、気落ちしたのは一番の目的である屋根の雨漏り修理のことだ。

シーズンなんだろう、雨が少なかったせいか、いつもの30分の1だろうか、たらいに

半分近くだったのが、今回はコップに2杯ほど。帰って来なくてもだいじょうぶだった。

それでも漏れているのは漏れているので、もう一度修理が必要だろう。

島への交通ルートはいつもは佐世保からだが、今回は長崎ルートを取った。より近い

港には着くが、途中までしかバスがなく、歩きは確実だったが、それほど歩かなくて

すむ。

ただ、高速バスで長崎駅に着く時間を読み違えた。30分も遅く着いたので、高速船に

乗るのにギリギリだった。歩いてはいられない。と、タクシー会社を見たので、そこへ

戻ろうとしたら、ちょうどそこのタクシーが信号待ちで停車していた。すぐに乗り込んで

港に着いたので、歩いていたら最後は走っていたろう。

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成田から乗ったLCC機。座席が狭い。

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肉体派の凸凹大根を久しぶりに、スーパーで見た。島ではこんなのでも出荷できるらしい。

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おにぎりの島が見えるが、その横を通って、鯛の浦の港に高速船が着く。

島に慣れてきた。1時間に1本平均の路線バスにも計算しないで、帰りは向こうで

時刻表を見ればいい、と開き直っている。いちいち調べない。

役場からの川沿いの道で、川になにやらいる。透明度はあるが、ドブ川には違いない。

キラリと25cmくらいのまともな海の魚が光る。ここで釣りができそうだが、釣って

も食べるのがためらわれる。

買い物帰りでバスでできるところまで来て、残りは歩きになった。1時間半も待てば

バスは来るが、歩いたらバスが来るより前に家に着ける。ただ今朝からなぜか、腰が

痛いので、あまり歩きたくなかったが 歩いた。

潮の引いた浅瀬に白鷺が3羽、アオサギが1羽いて、小魚や干潟の小生物を漁っていた。

歩きながら、これまでと違ってなにか感慨がある。ここの住民、という地元の人間に

ややなったような気がしていた。こんな気分も島へ通いはじめてからは初めてだった。

それが収穫といえば、収穫のようなもの。

明日は釣りがしたい。

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さかしま計画 [計画]

さかしま、とはふつう「逆さま」のことで、「さかしま」というユイスマンのフランス小説

があり有名で、主人公が現実は俗悪で怠惰に見えて、それに逆らうように反自然な人工美

を追及するストーリーらしい。

今、それに似たような、やや近い?ことをしている。このブログを書いていることを

指している。明日の飛行機に乗るには、朝5:30起きが必須だが、もう今寝ても

7時間を切っている。これを書く時間が長ければ長いだけ、睡眠時間が削られる。

それが楽しくてやっているとは思っていないが、断言はできない。明日の晩に着く

のでそれから書き起こしても、かまわないのだから。

実は今晩はこれで二つ目の記事なのだ。まだ荷造りをしていないので、今すぐ寝る

というわけにもいかず、ブログの制限時間が自然に迫っているのも感じている。

これで何が書ける、というのだろう。というのがほぼ、今ブログを書いている

動機なのだから、余裕をかましているというか、さかしまな動機なのだ。

だいたい、僕はひとりで旅行するのは好きだが、実際に行くとなると、行きたく

なくなる癖がある。海外へは特にそうで、行けばなんのことはないのだが、

行く直前まで行きたくないのだ。(このほうがさかしま、かもしれない)

だから、国内旅行でも、寝ないで書いて、出発2時間前に荷造りをしたこともある。

だんだん事前準備を早めにするようにして、そんなきつい睡眠不足は最近では

ないが、今はその可能性も出てきた。

と、ここで ふつうに 眠い。

荷造りして寝よう。10000mの高度で高山病になるのはこりごりだ。(一度、

なったことがある。真っ青になり、アテンダントがトンデ来た。そうすると、

もう飛行機に乗る気がしない)その日は睡眠不足で、フェリーでも波の荒い区域で

30分も船酔いに苦しんだ。乗り物酔いはするほうじゃなかった。いや、もう11時に

なるぞ、ヤバ。   

ではまた。

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さかしまな雲。
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こころの知的解釈 :概知の~探る その10. [知の思考]

ここで僕の「心」についてのおおまかな(知的)見解を書いておこうと思う。

その統一見解は僕にとっては不可能に思えるので「知的見解」と断っておく。

一応説明すると、心について感覚で捉えると、僕には未知の部分が多くて

書けるまでに至らない。まず、これから見解を語るにしても、その知的見解

はあくまでも知的にわかりやすいので、伝えやすいことになる。それで

書き出すことにしたが、感覚的説明からすると、知的見解はかなりあやしい

ものになる。思考も感情も感覚も渾然一体になってしまう態のものだ。

そういう感覚的な断面から見たものを知的に整理して見解をつくることは

できると思う。まだそれらしいものを論文、記事、書籍、雑誌で見かけた

ことはないので、気がついても誰も、その難しさに手を着けないのだろう。

前置きはもういいだろう。

これは「過去を語る:自分を測る」の記事の一部を解題する形で書かれて

いるが、全般ではこころの説明になっている。


珍しく、自分の書いたものをブログ記事”全体”で解題する。

僕の頭では常識になっていても、もう3年も書いて来ての

ことだから、昔々の記事になってしまっていて、僕の見解も

微妙に異なっているのかもしれない、と思うと、これは

自分のためにも復習しておいたほうが「良かんべぇ」と

なった。

人間の細胞は約37兆個の細胞でできているのが、最近の

研究結果だそうだ。受精卵は1個の細胞なので、それが

46回分裂をそれぞれくり返すと、37兆になる。2の45乗に

プラスαというところ。その増殖過程でいろいろ何になるかの

機能が決まって行くらしいが、そこはまだ研究中なのだろう。

この37兆という数はぱっと見て、わかる気がするが、現実に

1秒で3個数えることができたとして、数えるとなんと40万年

かかるらしい。時間を戻す方向なら、今の文明文化もどこかへ

いなくなってしまう。

次に心のあり方(存在として)は即物的ではない、と誰もが感じ

ながら、それを特定でないことも経験で知っている。この経験は

前提としてある「知識」で、知が働くと同時に、意識と心が即、

立ち上がる。もの心がついてから、そのくり返しで僕らの心に

固定された。

その話をちょっと覚えておいてもらいながら、”準”本題に入ると、

心はどこにあるのか、ということ。僕はどこでもいいじゃん、と

思ってるけれどもそれでは納得しない人も多いので、考えとして

は説明になるものと。

それは心は脳から生れたという、主に脳科学、精神科学系の

学者と、心は臓器(消化器系の胃や腸、または心臓)から生れた

という内臓系の学者とがいる。さて、どちらからか、と僕らは考えて

しまうが、それは無用なのだ。結論として決定的でないものを、

それらだけが候補だとするのも、あやしいからだ。

と言うのは、まず心は脳にあるにしろ、臓器にあるにしろ、物質では

ないということだ。ここから離れなければ、どこにあるかとか、どこから

生れたのかという問題には慎重になったほうがいい。いずれナノ技術

の展開から、新発見があって肩すかしを食わされる恐れがあるから。

では、心は物(物質的計測の可能なもの)でないのならば、なんな

のか。これが正しい問いだ。

答えは、まだ誰も知らない、だろう。誰もがそれを経験して、使用して

いるとさえ思っているのに、なんだか知らないのだ。でも、恥でも

なんでもない。電気の性質や法則は知られているが、電気は「何か」と

答えられる科学者はひとりもいないから、それと同じだ。単純なことで

わかっていないことは、気がつくと多い。これが「わかっていない」とは、

教科書では書かない。

でも、基本的なことはわかっていないことが多い、ということはイメージだけ

でもこれは固定化して置いた方がいい、と思う。これから話を進めるのに、

その固定化は役に立つからだ。


僕は、こう考えた。例えば、木片を燃やすと、燃えて炎が上がる。

木片は物だが、炎は酸化による化学反応現象だ。それを物=脳

や臓器から生れる炎=現象と考えれば、わかりやすいのでは

ないか。木片(脳、臓器)から生れた現象が炎(心)であれば、それ

が存在している形象が違っても、かまわない、というものだ。

だから、燃え尽きれば炎も消えるように、人間が死んだら心は

消えてしまう。(実は、そうではないように見える話も多いが、

それは記憶という信号がものに転着する問題で、別なことになる

ので、今回は割愛)。


では心の内部のことに移る。

脳の内部が神経シナプスによってさまざまな反応があり、その

速度もケタ違いで、僕らの想像を越えているのは知られている。

心も同様だろうとは、想像がつく。説明のためにはそのイメージが

必要だ。昔から認められた領域が3つある。思考・感情・感覚が

それだ。それが表面に現れたものとしてイメージしやすいので、

ここでもそれを使おう。

ここで思考・感情・感覚がそれぞれある、というのは肝心なこと

ではない。複雑で問題なのは、それぞれの関係性で、2つ3つが

重なって同時にいるのは、心の内部ではいつものことだろう。

この時によく言われるのは、理屈っぽいとか、感情的だとか、

センスがいいとかの言葉にその人間の中心な心の傾向が

現れることだ。理屈っぽいのは思考中心型の人間と呼べばいい

のか。感情は伝わりやすく、わかりやすいので「感情的」と言う

だけでなんのことかわかってしまう。感覚も同様に考えればいい

だろう。思考中心とか、感情中心とか言っても、それで他の

要素がなくなってしまうわけではなく、その中心を補佐したり、

修正したりで、同時にあって、補佐している。と言って、物では

ないので色の青と赤が混ざって、加減で紫や赤紫、青紫に

混ざり、変化する。その時に、その中心は動かない。

思考型は変わらずに思考(概念とその操作)から考えるし、感情型

は感情的に気持ちの動きのままに考える。

今の韓国民は感情型なので、法(思考)の正しさを重んじ得ない。

気持ちを大事にして、大切なので、法的正しさよりも気持ちが

こうである、というほうを正しいとする。お祭り好きでもある。

思考はもともと、知性のものである。知識・認識・意識は思考の

分野と考えるのが妥当だろう。僕らの自分は意識によって成り

立っている。夜に眠ると、意識は低下して働きが落ちる。

夢を見ても名前や行為が安定せず、支離滅裂になりやすいのは、

そのせいだろう。意識が自分自身に向かう時、それを特に「自意識」

という場合があるが、僕らが目覚めている時はほとんどこの自意識

が働くので、僕らが考える行為をしているのは、自意識が働いて

いるからだろう。

この自意識がさまざまな概念という概知としたものを駆使して、組み

立てたり、組み合わせたりして問題を見極めしようとする行為を「認識」

と呼んでいる、と考えられる。

そして、その結果として明文化されたり、常識として認識されたり、

されるものを「知識」と呼ぶのだろう。

思考は気持ちのように、心に根を持とうとはしない。それで他の

感情や感覚とは自由に結びつくことができて、化学反応のように、思考

による思考の直観とは別な「直感」となるようだ。

思考による直観とは、プロが盤上の将棋を見てひと目で十数手先の詰み

の手が見えるのと同じ。年季のもの。途中の手をいちいち読まずに、

それがわかる。

気持ちの直感はその雰囲気だけで、気持ちの嘘・ほんとを見分けて

しまう。感情型に特有というわけではないが、多い傾向。

感覚型は説明が難しい。最も伝わりにくく、他人の感覚は学習できない

し、まさに感覚的であるので、繊細だからだ。それでなのか、直感は

一番鋭い。そういう人が多い。なんでも色と形に還元できる、という人も

いる。

そして、そういう人で繊細な認識ができにくいと、すぐに本質に辿りつき

やすいがために、思考や感情をおろそかにすると、ふつうにわかりやすい

論理的な説明や、または感情的な表現ができないことにもなる。


次に心にとって最も重要な「自分」について。

(心はたぶん、無目的につくられたものではない。それは別方向なので、

同じく割愛)。

自分は知性とともに現れた。と、僕は考えるが、まだこの半世紀を振り

返ってもそれに合わない事象なり、現象なりには出会っていない。

と言っても他人の心を覗けるわけがないので、これは想像の域を

出ない。僕の内部の自分を無(意識?)から観察すると、そうなる。

ここでは僕がそう想像する理由だけ説明する。動物には人間の知性

というものは備わっていない。イメージは言葉から映像や気分など

を想像できるが、動物はまったく別な感覚でそれに代わる生存への

必要を満たしているようで、人間知性のように概念をつくり、それを

操作して別な構成にしたり、工夫したりはできない。概念ではないもの

で、それをするかもしれないが ・・。

イメージは知の認識によって生まれる。認識の親は意識で、この意識

は自意識なので、自分がないとイメージも生れない。心には思考の他

にさまざまな情意・感覚帯が渦巻いているが、認識の「区切る」という

機能によってあらゆる感情・感覚のほとんどは直接対象に関しないもの

については捨てられ、必要なものだけが分けられ、言葉(名前)をつけ

られ、それが何というもので、役に立つか立たないかなどの情報を分析

して利用される。

この訓練のために学校の知的教育が必要になる。(感情も感覚も内部の

区切りができないので、変化も多用で、整合性(=思考性)という安定を

得られないので無視されている。そのために社会の方向は思考向きに

一方通行になっている。ほぼ必然だろう)。

それは高度文明社会ほど、その素早い認識作用が必要になるから。

電車の時刻表を見つめて、ホームで10分も突っ立っていたり考えている

のは、通常は許されない。一人二人なら邪魔にならないが ・・。

この認識作用は現実から、現象を切り離してそれを抽象化(概念・観念)

する。それで知性はもともと現実離れしていて、非現実の領域に類する

ものだ。例えば、考えだけの無益さを、「机上の空論」とか批判する言葉が

ある。


さて、ここらで俯瞰しないと(まとめる)、混乱して来ただろう。(僕もだが)

主要なテーマは人それぞれが中心を、思考や感情や感覚などに持ち、

しかもそれらがコラボしたりするので、ほぼ無限の性格や性質の人間が

いる、生まれ続けるということ。で、思春期の自己の完成に向けて親から

生れ(民族とか貴族性やら庶民性)やお国柄や言語、習性・習慣を学び

社会的に自分(というもの)を形作る。自分は知性でもあるので、現実では

ないのでA国で生れたA国人でも赤ん坊なら、B国人にB国で育てられたら、

B国語を話し、ほぼ半分B国人になってしまうように、自分ははじめから

何かに固定されていない。その環境の色に染まるのである。

つまり、自分はそれを形にする枠という鎧を持ち、その中に社会的自己

をつくったり、入れ替えたりする。その鎧が自分を守る役目をする。そういう

自分を僕らは「自分」と考えるのである。

実はその意味では遺伝子からの引き継ぎや成長過程で得られた経験・記憶

から自分という記憶が形作られている、と考えているが、記憶だけではない。

記憶は体の細胞にも蓄えられるので、自分がそうだ(=自分だ)と思われる

ものをそう決めつけているだけで、「自分は心のように境界や区切りが

つかないものだ」というのが、正確なところだろう。自分が自分だと思っている

記憶や知識があるが、それはいい加減なところでは正しいが、厳密に

規定しようとすると、あいまいで煙のように頼りないものだ。

思春期を過ぎてからも僕らは成長する。

子どもの頃から僕は同じ名前の人間であるけれども、子どもの自分を

今の自分とは考えていないし、違うものと思っている。だから、僕らは

同じ自分でいることは不可能で、常に変わりつつある生き物だ。体も

変化し、心も変化する。同じ環境で過ごすならば、親からの遺伝子に

よる体・顔の変化や心の中心型の変化はあまりしないので、これが

その人の性格や性質と他人は位置づける。根なしの知性が大きく

変りやすい。あの人は変った、と言う時はその人が考え方を変えた

ために、行動も変化をこうむり、性格が変わる。

僕らの過ごす日常は、実は少しずつ僕らが変化している日常でも

あるはずだ。でなければ、僕らは子どものままに違いない。

この成長部分を僕らの自意識はオンタイムで確認できない。それ

は「今」に関わっていて、僕らは行動している時は、意識は知性から

は切り離されている。それで「今」を知性で俎上に載せたり、料理して

咀嚼したりはできないのだ。これは心の未知の部分として、常に

現在として存在する部分だ。

やっと本題に近づいた。僕らが他人に発見する新しい性格という

のはそういう部分かもしれない。くり返すが、自分では自身にそれを

発見することができない。それで僕らは100%自分を発見することは

はじめから不可能であることが分かる。まだ生成中のものが自分の

中に未知のものとしてあるからだ。

では僕らが自分を理解するという時にどれだけの自分が理解できると、

言うのだろうか。僕らの中心が思考や感情、感覚に依っているだけでも

3パターンある。この時、他のパターンはその中心に寄ってくるものとの

区別はつけていないだろうから、ふつうでも理解しやすいのは元から

未知の部分を除いて、30%くらいだろう。それでも感情の関連性から

は理解できないが、感情を感じるのはたやすい。そういう感性による

理解を含めれば40-50%くらいだろうか。年とともに体験が数・量とも

に増すので、言葉に現わせないが違いがわかる理解も増す。年代に

応じてこの数字も変化する。それでもざっくりと自己知というものを

自分(主観)で考えるものを100%とすると、客観では60-70%

くらいに落ちると考えるのが(平均としては)妥当だろう。 

だから、自分で自分のことが完全にわかっていると思うことも、自分は

自分のことがまるでわからないと思うことも、どちらも愚かなことだが、

人はどちらもそう極端には思っていない。そこでいい加減なところで

相手を信じたり、疑っていたりする。こういうことは通常では避けられ

ないことなのだ。僕らは変化する自分、社会、自然環境というものの

中でどうしようもなく、苦しみ・不運・不幸・災害という一端(誤解ない

ように、一端である)に出会うようになっている。

善意の(あるいはお人好しの)子どもは悪意を知らない。その時に

出会った悪意を理解しない。理解するのはまだ先のことなのだ。

その時、子どもの心に悪意は存在していない。そのままでは困ること

になる。悪意に気がつかないと、善意への甘えが利用され、悲劇を

生んでしまうからだ。この成長過程がそれぞれの両親や家族環境で

とても異なっている。そこにはもともと自分が備えていない矛盾や逆説

な思考や、さかしまで耐えがたい感情や、魔法のような理解しがたい

感覚というものがあって、そこには僕らの心の底に眠っているものも

あるだろうし、もともと人によって備わっていないものもある。

それは微妙なものにとどまるのが多いとはいえ、ないわけではない。

そこまでお互いの心をすり合わせた時に、お互いの理解が生れるの

は、かなりの時間と意見と、認めるべきは認める精神があったから

になる。それを求めるのは理想的なことで、あまり現実的ではない。

僕らは社会がどんなにルールで区切って物事を秩序化しようとして

も、感情も感覚も割り切れる性質のものではない。

だから、社会的に絆という象徴を創り上げる。僕らは仲間で、とか

兄弟だとかで気持ちで結びつく方が、現実的で集団や組織を

作りやすい。絆はその気持ちの上だけで存在する。夢を掲げる

わけで、理想を掲げるのは必要なことで、現実のルールだけでは

きつくて、長持ちしない。夢なら、ゆるくていい加減だから、ルール

ばかり、時間の拘束、人工的、結果ばかりというきつい社会には

合うのだ。潤滑油ではない、無意識に対抗しているものだ。

以上、いろいろ言ってきたこれらが以下の詩の作文の背景に

なるもので、理解すればそのまま解題になる。



(「過去を語る:自分を測る」から)

「 僕が  僕の バックドアを つくっても

それが どこへ通じているのだろう

通じているから  どうなのだろう

答えは  なにかの  変形ではないだろうか

解決は  なにかへの  変化形ではないか

それが うまく当て嵌まるには  それなりの

工夫や タイミングが  あるだろうが

それは  それで 済んだとか

終わりになるものでは ないのではないか

だから  どう生きるかが  大切になる   」  


自分への答えも、社会への疑問も、自然への対応も

すべて変化する物事への変形を、または変化形を促す

もので、僕らはそれをどうするかが問われる。

あなたならその答えをどうするか、というのがほんとうの

問いだ。あなたはどうしたいのか、それをよく知っているのか、

あなたも含めて、短い時間に、長い時間にそれぞれはすべて

発展、衰退、逆転、惰性に、変遷する。あなたは休憩を挟んで

常に問われ続ける。それはそれに適応するためにそれに立ち

向かう限り、それは新しい発見をもたらす。それがない結果は

まだ結果が出ていないことだ。

ある臨界点を越えると、物事の質が変化してしまう。それが

世界、あなたの世界が変わることだ。これは劇的なので

はっきりとわかる。どこがどうというのは、僕も「不完全」という

性質のまともな人間なので、僕に関してだけわかる。僕の場合

は劇的だった、と。

人間性・人間らしさという言葉は、善意( goodness ) からつくられ

ている。嫉妬や残虐を人間性とは呼ばない。ただ野生動物から

区分して人間性と呼んだわけではないだろう。


長くなった、 読んだ方はご苦労さま。







                         4.27 ~ 5.2(6-7h/3days)
 
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漢字の「心」:概知の新天地に迷い込んだ、探る その9. [思考]

さて、「さて」である。

心の問題を取り上げれば、僕らの長い歴史の中心的な流れは見据えることが

できる、という視点から話を進めて、こころの発生というものを捉える場面

まで来たのだが、ここでもうひとつクリアしなければいけないことが生じた。

それはこころの発生に伴う事象で、こころの発生から僕らがそれをどう感じて

どう扱ったか、という僕ら側から見た心へ初めて接触してからの混乱のことと、

もうひとつはそのこころは僕らの中で実際にはどういう形態をしてなにを演じて

いたのか、という二つのことである。

無意識な精神心理というものが発見されたのがこの100年くらいのことであるから、

はるか昔に直接こころを扱った文献というものは存在しないだろう。これからが

手探りの面白いところだ。なにもないところから新しい学問分野を発見するのは

いつもこういう手作業から始まっている。本に書かれているならそれはもう過去の

事柄だから、新しい発見は無理な話なのだ。

だが、間接的なヒントは本から見つけてもおかしくはない。年代などを特定して

ゆくには、そういう考古の資料は大事だろう。その著者の考えがある場合は、そこ

には慎重に考えと事実とを区別しなくてはならない。その事実からどう考え、どう

結論するかは、その人次第で千差万別という、野放図というか、いい加減さが

あるからだ。

僕らが購入する本というのは、ほとんどが自分の意見や主張を織り込んだ、自分と

似た意見のことが書かれているものが多い。趣味や娯楽はそういうもののほうが

いいに決まっているが、いざほんとうのことを知ろうとした時には、それは妨害

にはなっても、事実が”よってなる処の真実”のようなものを見せてはくれない。

知りたいのは真なるものであって、自分ではないから。

(ここでもう一つ注文をつけると、先に進めない)

まず、漢字から始めよう。漢字の「心」は心臓を象形にしている。中国大陸では

すでに心臓から始まっていること。

紀元前1600年から前1046年までの卜文には現れていない。聖化儀礼としての文の

字形の中に現れるだけだと。前1046年からの金文から心の用法が現れる。

この頃から心が使われ出したらしい。それからの500年間からは心に対応するのに

さまざまな思考する者が現れた。ギリシアではソクラテスが現れたのを筆頭に

100年遅れて、インドではシャカが、中国では孔子が現れた。釈迦と孔子は同時期

に亡くなっている。

孔子の論語は同時代に書かれたと思われているが、なかなかどうして、簡単に

論じられない。それは孔子の生きていた時代にはない字が使われているから。

これは後世に論語を筆写などしながら、研究も併せて、その時代の漢字を

使ってしまったからのようだ。

「謹みて信あり」という言葉も、言葉を謹(つつし)み、言ったことは行え、

ということだが、「謹」も「信」も孔子の時代にはなかったというから、驚き

だ。さらに「愛」も「仁」もなかった、と。あと、「四十にして惑わず」という

有名な句があるが、この「惑」も孔子の時代にはなかった。(以上は「身体感覚

で論語を読みなおす」安田登:著より)だから、「身体感覚で論語を読みなおす」

の著者も「惑」を「或」に読み変えて、新しい解釈を試みている。それも面白い。

この著者は能楽師なのだが、なんでも屋で、医療家、中国文学の研究者、舞台

プロヂューサー、語り芸、ジャズ・ピアニスト、ゲームデザイナー、高校教師

と幅広く、特に体を使って理解しないと気がすまない人だ。

基本的なことを基本に従って、はじめから研究すると、こういうように新発見

ばかりになる。こういう本が多いほうが真相に辿りつきやすい。それは権威

という伝統を守る、例えば大学のネームバリューのような、そういう固定観念

から抜けられない方向を守ってしまうことになる。それでは悪しき伝統に

なってしまう。

ここまでで、少し漢字には手をつけたというところで、また少ししてから、

書きたい。




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島へ帰ります [島]

ゴールデンウィークに職場が休みにならないと。それ、ほんまやったら、

香港、マカオや(?)。いや、ほんまや。

日給月給なら休みにかぶせて、自分も休むのが鋼鉄の法則であるから、

休みの申請を却下すること、慌ただし。

休んで島までゆくには、大層な理由がお座敷に御座していらっしゃる、

のだ。なにせ築50年とか、サバ読みしたいが、そのままだったりする

年季ものの家屋様。雨が大量に降ると、屋根裏で汗をおかきに

ならっしゃる。つまりんは、雨漏りのことだ。

IMGP0042 (640x486).jpg



タライがはじめから置いてあった。これは驚き。すぐに対処したのだが、

なかなか雨は神妙な侵入者様で、4か月もすると、タライに半分も

雨が溜まっていらっしゃる、のだ。うーん、これは手ごわい。

これがこぼれてしまったら、台所の屋根は腐り落ちてしまうやも。

さてもかくもして、またもや電車・飛行機・高速バス・フェリーを駆使し

陸・空・海に展開して、島の古家さまに辿りつく任務を背負ってしまった、

のだ。

ゴールデン・Wを過ぎて、すぐに出立の予定。

あと、手で洗濯していたのやめて、洗濯機、買います。2年越し?

17.1.21 光と島2.JPG
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過去を語る:自分を測る [自分]

昔みたいに  ひとりで 泣いてみたい

と 思うが  嘘だとわかる

悲しみ じゃ

もうできないこと だからだ

人のことならともかく  自分のことで

泣くことはない  だろう、とも思えない

自信じゃない   構える 必要もない

昨晩は 肋間神経痛に なった

胸から なにかを吐きたくて

職場の外に出た  夜の浅い 側溝に

酔っ払いのように  嗚咽するが

出るのは 空気しかない  

肋骨が分かれる 骨の中点が 痛くなった

なんだ、これは と思ううちに

苦しくなってきた

それで  その痛みを 思い出した

肋間神経痛!  時々ある

冷えた時にあるが  それにプラスした原因が

あるのだろうが  それがいつも わからず終いだ

痛みは  市販の風邪薬で  15分で

緩和して しまうが

取りつく 苦しみは  そのままだ

それでも 大したことはない

落ちつく

これは 癖になってしまっている

苦しみには  すぐ 対応してしまう

最短で  最良は  知らなくても

適短で 適良な 治療を  施す

すぐ 集中するので  苦しみを味わう 暇がない

感覚は  治療中に 続くが

それについて 感想したことはない

考えない

一度 経験したら  それをくり返しても

得るものはない

新しい 苦しみではないから

そう  反省してみれば  僕は  精神で

小さくも  大きくも  苦しみに 陥ったら

その距離を  測りはじめる

その質量を  測りはじめる

それは できる

自分という精神と  等価のものに

比較ができるならば

そこから  自分の状態を  抜き出すことができる

その実験で  結果というもたらされたもの、

それは 日記でも 随筆でも 絵でも  音楽でも

なんでもいい  自分のうちから  現れたもの(表現)であるなら

それを 見つめ  初めて 考える

それは 問題であり、答えである という形を

している  いつも

でも  簡単なのに できないのには わけがある

通常では 僕らは  ”自分”と比較にあるものを 持っていない

自分は ただの言葉ではないし

自分の知性で 考えることは  自分に対しては

役に立たないからだ

知性は  感情から考える人もいれば

感覚から考える人もいる

直感は  それなりに誰も持っているが

知性は その中心に合わせて  姿・色を変える

そのそれぞれのコラボ関係は  自分のうちの知性では

解けない  残念ながら  

ふつうに 外からの客観を 必要とする


僕は  19歳で 一度  死んでいる

それが 臨死とか  疑似の死だと

わかったのは 20年後

死んだ教訓はあったが その意味を 知るのは 

さらに 20年後に 無意識に  ジャンプ?

あるいは 飛びこむ?という  離れ業をした時だった

個人的に  人生で最大の 恐怖だった

無事に もどれないと 知っていたかのように

覚悟しなければ ならなかった

そういう瞬間は  なつかしい

死を  決心するのは  そう何度とある、

ことではないから

おかしい(笑)  おかしいのだ

今から 思い出すと  そんなに 恐怖だった

自分が  子どものように  思えて

あれほど  真剣に 悩み、迷ったのに

(決行!)

それからが  ほんとうに  世界が 開かれていった

40年も かかった  僕は 頭のいい 人間ではなかった

すべてのピースが  埋まるまでは

その小問題の 結果を 小停止させ

待った  その他の 傍証・証拠が 固まるまで

どんな考え方でも できるようになるまで 

自分の考え・世間の言われていること・常識や常套句に

なっていることに  明らかに 三者三様の

誤解と理解が  得られるようになるまで

一度は  頭がオーバーヒートする 経験をした

エンジンと 同じで  思考停止になり

頭が働かない 鈍い感覚に 陥ったのだ

それから  同じ回路は くり返さないようにした

ひとつ ひとつ  クリアしながら  進んだ

ある程度  整理が進んだら  発想や 直感が

自由に 来るようになった

僕は  頭がよくないのを 知っていたが

決して  それを 自分に刷りこむことは しなかった

あきらめたら ジ・エンド  

だから  最後まで  これで終わりだと 思っても  

さらに  食らいつく  もうダメそうだ と見えたら

すぐに それを  心から打ち消す  

ともかく 破れかぶれで  終わりを 認めない

だから  必ず  結果を出す  ということに。

こと精神の問題に関しては  なぜか

妥協しなかった  引いても 後で やり直す

臨機応変さも あった  直球ばかりではなかった

途中で  友人から  自分はバカだと 紹介すると

楽になるのを  学んだ  そのセリフが

使えた時に  4,5回使ったが  自分を告白するのは

楽しかった  はじめだけ ちょっと勇気がいるが・・



今夜は  ネットで 「悟りとは 考えないことだ」 という

のがあった     なるほど、  それも一理

または 本質であり  側面でもあり  さまざま、

という気がするが  ・・。

還暦を過ぎて  バンジージャンプを  することが

とても健康的だとか  心臓にいいとか

思えない

したことがないから  する というのが

十分な動機になるくらい  僕は  人のやらないこととか

経験したこのないことを  やってみたい

強く 惹かれる  というのは  あっても

僕は  それを 必ず  やってしまう

人は 面と向かって  バカとは言わないだろう

面と向かっては ・・・。 だよね

自分を  そこに 置いてきた

知性も  そこに 置いてきた

自分からは  考えない

知性だけからは  考えない



今の僕は  うまく 言えない

考えるのなら  どんなにでも  言える

どんな言い方も  不十分になる  

なら  無知を 楽しんでいる、という言い方は

どうだろう

雰囲気としては  そんな  感じなのだが

知性がないのではない  知性が あわびになった、

そんな 固そうな  柔らかそうな  なんとも


また 自分を 迷宮にしている、とも

そして  迷宮には  興味をなくし かけて

捨てようと さえ している

ああ  過去のことだった

今が  気になって

どこまで  話したか

僕が  僕の バックドアを つくっても

それが どこへ通じているのだろう

通じているから  どうなのだろう

答えは  なにかの  変形ではないだろうか

解決は  なにかへの  変化形ではないか

それが うまく当て嵌まるには  それなりの

工夫や タイミングが  あるだろうが

それは  それで 済んだとか

終わりになるものでは ないのではないか

だから  どう生きるかが  大切になる

そういう 奇妙な 繊細な  泳ぎ方のように

どうするかが  重要になる

僕は たぶん  それに 体を 合わせようと している

気持ちを  捻じ曲げても  合わせようと

感覚は どうなるか わからないが  合わせようと

この 上下のない 世界を  泳ぎ切ろうと

なにも  決められないのだ

ああ  またしても  答えを出してしまったね  自分

まだ  海水が  引いている というのに



古い映画が  終わろうとしている みたいだ

暗いままの 館内で  おまけの映像はないかと

坐ったまま

君は  明るくなるのを

待つのか

なにも 確認するものは なくなった、と

確認したいのか


さあ  外へ

外光の まぶしい  世界へ

さあ ヘロー !

I need You  now !

You need  Me now !


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わからないものに捧げる [夢]

外では そよ風が吹いているよう

シンと した冷えた空気が  入ってくるよう

飽和脂肪酸という 言葉が浮かぶが  いらない 

ただ 飽和がある  ありそうだという話だから

心の中和を  通り過ぎて  通り越えて  

飽和が 泡のように 広がるのだろうか

以前から  自信はなかったが  そこらに

そのかけらは ころがっていた

拾えばいい  そう思っていた

今の気持ちは  そんな事情にあるだろうか

かけらでさえも  泡になろうとしている

そのなかで  これは  書かれているという

まぎれもない 事実  ベタな現在

こういう時がある  その不幸な 予測があるはず、でもなく

する気もない癖に  怠惰だけがある

スルー アウト  という暖簾(のれん)を くぐって

夜の 飲み屋街を  暗く 歩く

そのほうが 気持ちいい

今は  そういう時なのだ

でも この先に  望んだ階段が あると

思っている

登るべき 自分に用意した  夢を果たすべき、と

Soon

You should know‐n 

ぐるぐる 回るよ

その中点には  触れずに

灯りに 集まる 蛾 だから だろうか

触れたら  終わってしまうから  だろうか

焚火のまわりを  回って踊る フォークダンスだから だろうか  

どうして 日本では ダンスパーティが 流行らないのか

ふーうっ と 一息 入れてみる

書いている途中 の 状態は 変わらないのに

体の  どこでもないが  どこでもを 一時に

チェックする  ゆるい呼吸が  ある

また  夜の空気が ころがり込んでくる  ふぅ

そうなのだ  また書けないのだ

文章の技術という  芸ではなく

それは まだ この世に紹介されていない  ナニカ

だからだ

そういうものを 発見しても  それは 忠実に

知識になろうとしない

なにかの コツでもあるかのように

説明を 拒むのだ

体が  何回も練習したりして  覚えたり

感覚を  習得したり するもの

ダンスのように

非日常とか 言うけれど  それは オカルトじゃない

仮想現実のように  ないのに あるもの

仮想が 錯覚なら  それは 存在という未知

ただ 知らないだけ

もっとも わからないのは  これほどまでに

それを 強調して  書かなければならないこと

なにが したいか  わからないのに  書く

いつでも  どこでも  僕の原動力として  働くもの

これを 紹介しようとして

(あるだけは わかっているのに) これは なんだろう?

で ちょうどいい

カフェに行って  珈琲を 飲みたくなるのは  どうして?

家ではなく  カフェが  どうしてもいいのは  なぜ?

そこに描いている  僕らの あこがれ

そこにもあるもの  わからない まだ 言葉になっていない

たしかな  僕らの 歌う 気持ち

トータルな 中間色で  描かれた  絵画のような

空間?  んん 時間?  光景?

分断じゃなくて  まとまった それを

僕らは  しあわせの  ひとつとして  想う

わかるだろうか この瞬間に  僕が  どこまで 行ってしまうかを

誰も  想像できない  果てが ないから

僕は  夢見がちになる  必要な緊張が足りない、というような

常識範囲内  のこと ではない

重力は  科学の謎だ  どうして消えずに

宇宙の果てまで  影響する のか

光に 電波に  重力はないと  されている

人にある 無重力は  心のことだろう

光の波にしても  重力の波にしても

果てない  果てないの意味を  知っている人は いない

果てない、という形容で  使っているだけで

どこまでもそれがあるのなら  人はそれを一生思っても

達しないのだから  イメージで区切ってしまう。

僕らの 想いは  ほんとうに果てしないのなら

僕らは  真に 終わることができない

その想いが  あなたの 動機として  つながるのならば

あなたが  それを 断ち切るのだ  いつも

僕は ・・・

僕の想いは  断ち切られない

わからないものに  いつも つながれているから

これを言っても  相手にされない  わかっている

でも  僕にとって 事実 であるものに

僕は  文句は言えないし  ただ 語るしかない

それが こだまのように 帰ってくるからだ

Take easy

それが 帰ってくるメッセージであり

僕が  生活する  メッセージだから

僕は たぶん わからないということ において

君を  理解している

そう思うと  ピッタリときて

感動さえ してしまう

そう わからないということが  まったくもって

ワカッテイル!

輝く 星よ

僕にとっての  君たちが  なんであるか  わかる

大切なのは  それで  ”誰かにとっての なにか”で

真理とか 真実とか  いうものではない!

ワカッテイル!  そうかい  それは よかった 自分へ

もう 誰も 聞いていないよ  静かに

夜は  更けゆく

いいね  

この夜が  いつも 最高であるのに  驚く

毎晩 驚いているのは  君くらいのものさ

いいね

ほんとうに  いいね

Yes  Yes

Ever been  Mine

いいね

君 




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