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休みを模索 [休日]

心は内臓にある、とかの本が予想より多く出ていて、ある程度

通読が必要な本が増えるのは、難儀だ。(難儀というのは、僕に

しても古い言い方に思えるのだが、最近はそういう言葉のほうが

出てくる。意味も多様性があるので、つかみにくいが、書くほうは

多様性に埋没できるので便利だ。)

心は内臓にあるか、脳にあるか、という二者択一での考え方は

通用しないのではないか、という考えに傾いている。

どうしてか、というと僕は皮膚に記憶があるのでは、細胞に

記憶があるのでは、という自分の肉体のきつい労働経験から

そう推論が出てきたが、そうしたら「皮膚は考える」という

本があって、著者はもう数十年研究している、という。

先駆者はやはり、いるものだ。  

以前は、きつい肉体労働の後でシャワーでも浴びて、ほっとして

いると決まって高校生時代の記憶が蘇る。その記憶はまさに高校の

それで、汗の臭いのする感じ、当時の雰囲気が味わえる。こう

いう記憶は頭のものではない。危険に際しては皮膚が震えるような

悪寒をもたらすこともある。滅多にないので、なかなか検証でき

ないが ・・・。

進化論があるが、そういう心が登場してから、またその前のギリシヤ

時代に「心」と訳される語が「腸」や「腹」であることを思うと、心も

それなりの変遷があったと考えるのが、自然で妥当だろう。

そうすると、進化論に眼が行くが、ダーウィンの説も固定ではなく、

ダーウィン自身が考えを変えている、と「人間の由来」を書こうとする

あたりで言っている。

そして、進化論も自然淘汰説のみならず、広範に見渡すと、また復活する

進化論がありそうである。現代までに遺伝子や生物学がすすんだおかげで

ウィルス進化論とか、色々出てきて、もしかして「進化」って当たり前な

現象でこれ、というおおもとの法則もないのでは、とまでも考えさせられる。


集中には環境に左右されるタイプなので、一か月くらい外の仕事を休もうか、

それくらいは必要だろう、と今日は考えた。それでも、島へ行く時間は

しっかり必要だから、一か月でも十分ではないかもしれない。間々に沈思

する日が必要になるから、それを入れると、・・・と大変だ。

周囲と会社にもうまく休むのにも、工夫が必要だ。

ところで、島は先日20日に50年ぶりの雨が降った。僕の島全世帯で避難

勧告の「命の危険」が出た。うちの郷だけで90人くらいいるだろうか。

皆、避難したとは思えない。隣のダイコクさんは主人が入院しているし、

本人(奥さん)はもうぼけかかっているみたいだから、誰かに連れられ

なければ、避難はできないだろう。で、自分の家だが、どうやら床下浸水

も免れたようだが、郷長さんが外から見ただけだから、本当のところは

行って中を見なければわからない。ま、だいじょうぶだろう。

という感じで物事は、進み始めている。ネットはどうにでもなるが、本の

資料は持ち運べないから、座間でということになる。  

さて、いつ頃休むか。

それと、下痢の体調不良が続いて、この際なので以前から興味があった

「東洋医学」の本も 読み始めている。大筋はわかったが、つかみづらい

半哲学的な思想があって、鍼と漢方、お灸などを使う。あまりに細かい

指示もあって、ほんとうか?と疑問に思う個所も。まるで魔法の、むしろ

魔女の生薬ではないかと、見えるのもある。面白い。

今は附子(ブシ)という猛毒トリカブトの根の粉末が入った漢方を飲んで

いるが(素人判断、あなたはマネしてはいけない)、まだ死んでいない(笑)。

ちゃんと市販されている。東洋医学もまた、いずれそのうちに。
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猫の未来 [猫]

えー、梅雨もかき入れ時となりまして、と なんのこっちゃ。

雨が続いていて、気になるのは駐車場に来る猫たちだ。高騰する野菜より

売れないクーラーより、野良猫が気にかかる。理由はある。

彼らを見ていると、ふてぶてしく、そこが好きだからだ。観察しているうちに

彼らがどうして生き長らえているか、駐車場だけではまったく解明できない。

どこかで食料を調達しているはずなのだが、そこにたどり着くのはシャーロック・

ホームズにならなければならない。明日は雨か、また曇りの日が来るだろうから、

それをチャンスに行動してみたい。

夏になってしまえば、猫も暑さで行動が変わってしまうだろう。

彼らの行動はほぼ同じ一日の行動範囲を、同じように巡回しているようだ。

ルーシーの場合は年なのか、習性なのか、トラウマなのか、人間の男は

強くて危険、女・子供は弱くて気を許せる、ということで統一していて、

恐らく、女性の家でエサをもらっていると思う。というのも、僕が

島へ出かけて長く留守にした時に、家の女房に数日、出てくると鳴いて

エサを迫ったそうだ。ウチのは外猫アレルギーだから、ルーシーには

かまうことはない。

猫はたいしたもので、僕がエサをくれるから、女房も(人間弱い種なので)

エサをくれるのではないかと、営業したらしい。男の僕への営業もした

ことがあるが、僕がそれを喜ぶオーラを出さないので、つきあいにくい

奴だと見定めたらしい。以来、まるで事務的にエサを食べに来るが

見かけは素っ気ない。見かけは、というのは、3年もそういうやり取りを

していると、彼らがまったく独自に動いているのがわかる。なにか気にして

いるのはわかるが、こちらにはわからないし、もしかすると、ルーシー自身

もわからないのかもしれない。例えば、時に風の強い日には、食べ終わって

プラのエサ皿がひっくり返してあることがある。プラなので風に飛ばされ

ないよう、気づかいなのだ。

僕の時にニャーニャー対応するのは、よほど腹が減っている時だろう。

僕に甘えてもなにもいいことがないと知っているのだろう。そうして

そういう独自な生き方をせざるを得ないルーシーを見ていて、人間なら

独立心とでも言いたくなるものを感じて、僕のほうからは少なからぬ

友情を抱いてしまうのだ。

猫はエジプトの文明時代から倉庫のネズミ被害対策で飼われたのが

初めだろう、という。そのころから、人間のオーラを判断するのが

うまかったのだろう。遺跡には、神になった猫の彫像が刻まれている。

たいした出世だ。

それからずいぶん、幾時代もあった。そう簡単に猫の時代は終わらない

だろう。が、現代では家庭動物の避妊手術を奨励していて、今は1匹

3万くらいか、エサ代、砂代、病院代、とあるので家庭でその手術を

する猫の数には限度があるだろう。

この先、手術代が画期的に安価になる危惧はある。良かれと思ったこの

進歩は猫の数を半分にするかもしれない。それでも人類とともに生きる

ことを選んだので、絶滅はない。それは人類とともに、だろう。

人類と共存しながら絶滅を避けている鳥がいる。スズメだ。彼らは

人と妥協せず、成鳥したら絶対に飼われない。鳥かごに入れられても

エサを受け付けず、餓死を選ぶ。そして、スズメは肉身が少なく、骨っぽい。

それで食べられることも少ないので、うまく世界中で、そこらの都会でも

繁殖している。イヌもネコもその点、人間と共同生活を営めるほどの感覚と

適応力を備えていて、特殊と言える。 そのためにならないはずの病気に

なったり、とそれ相応の悲劇もある。

犬はすべて、人間の癌を嗅ぎ分けられるらしい。人間が愛玩だけではなく、

友情を築くことができたら、犬は癌の場所を教えて、悲しく鳴き、近寄ら

なくなるという。それでなにかあったと、飼い主は悟る。

猫はなにができるだろう。心配はいらない。僕らより優れて、なにがあっても

適応するだろう。それがネコだ。


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梅雨のあいまのルーシー [猫]

薄曇りの中、駐車場の広場にルーシーが現れだした。さすがに雨が長いせいだろう。

エサ不足。が、

猫缶の6分の1くらいは捨ててしまう。食べられず、残してしまうからだ。

こちらから見つけると、あちらも見つける。一瞬、見つめ合うが、すぐに僕が

片手をあげて、家へ足を向ける。玄関を開けっぱなしにしておく。また、エサを

用意して出てくるぞ、という合図だ。ルーシーはもうなんでもわかっている。

玄関に出ようとすると、そこにいて、すかさず隠れる。今日は休日だから

お隣さんは出かけていて、車は停まっていないので、隠れるとこなんかない

のだが、フェンスの横にいる。いつもの場所にエサの皿を置いて、長居せずに

家に引っ込む。

今日も出がけに、彼女がいると思った。駐車場で少し見ていたが、黒い車の

正面からしきりに空気取り入れ口の匂いを嗅いでいる。何か変。そんなのは

初めて見た。すると、左側から猫が来て、これがルーシーだった。毛色が

汚れたような茶色で、すぐにわかった。3mくらいで二匹は見合った。

猫はお互いを見切る。人間に対した時のようにニャーとは鳴かない。そう

思っていたら、どちらかニャーと鳴いた。えー!?

初めて聞いた、対猫の鳴き声だった。猫の数匹のいるところなど、ある時間

観察したことがあるが、一度も鳴いたのは聞かなかった。それで猫同士では

鳴かないという知識を読んだ時は、そうだろう、と思ったが、えー!?である、

まったく。猫の社会もなにが起こるかわからない。

バンパー近くの匂いを嗅いでいた猫は、ルーシーよりも黒っぽかった。格下

らしくきちんと猫坐りで、ルーシーを待った。

ルーシーは猫同士の微妙な挨拶はあったのか、その横を知らん顔したかのように

通り過ぎた。ルーシーらしい。そのまま外出して帰ってきたら、ルーシーがうまく

まだ駐車場にいて、片手を振って合図してやった。あとはいつものとおり、エサを

やった。

以前は、テリトリーの争いを駐車場で他の猫としたことがあったのだが、

もうそれは確立したのか、どうでもよくなったのか、猫社会もよく

わからない。 

猫は南方が原産だから、暑い夏のほうがいいのだろうが、もともと人間の

手に負える気象ではないうえに、異常気象とかで、毎年毎年、忘れてしまう

ほどに観測以来初めて、史上最高値、とかで記録が打ち立てられている。

誰もニャンともできない。
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困った [気持ち]

書くことに興味がなくなった。

困った。

困った。困った。困った。

困った。困った。困った。

終わった。

心の何たるかを追い求めるのは、なにか役に立つような気がしていた。 

だが、そうだろうか。

今は、一人の楽しみとして、始まったこの知的な旅を続けてみたいと思う。 

ブログを気にする生活も厭わしく思われるようになった。 

これではこちらからいい影響とかは期待できないだろう。

それとは別に、心の問題は非常に幅広くなり、また今までわかっていたことにも

再読が必要な「方法序説」なども新たに認められるし、今までのように気まぐれ

で書けるようなテーマではなくなってきた。  


実は、僕は僕の直感3分の1、世間の噂・諺・風聞・常識と言われるもの3分の1、

残りは他人の意見・本・論文などを最後に比較していた。そこでそれぞれが

納得のいく誤解や正解やズレや見方の違いによる、とかでスッキリとする

そういう答えをまず感じることを求めた。その何とも言えないものを、 

それぞれの見解で見ると、なるほど自分の直感はここを見ていた、世間の

常識はこういう誤解だった、彼の本の見解は彼の個性が示されていた、と

いう具合に答えからそれぞれに明快な、それぞれの見取り図ができた時に、

答えが正しいことを確認できた。そうすると複雑にからまっている物事を

整わせ、見るだけでなにがどうなっているのかわかった。

だが、こうした確信に自信を持っていたが、ここへきて半世紀も費やして

来たこの方法に疑問を感じた。わかることは間違いがないが、それが

なんだって言うんだろう、と。  

個性の披露であるなら、そこらの二流哲学と何ら変わりはないではないか。

どうして僕らは3000年前という時代を理解できないか。つまり、自分に

理解できるとは、到底思えない、ということなのだが、それに絶望な

気持ちを抱いたわけではない。そんな絶望なら、腐るほど克服してきた。

たぶん、こういう道を究めるがごとく、書き残していくことが社会に

認められるということだろうし、そう希望しなくても、そういう仕事の

量が必要なのだろう。僕(ら)が何事かであると、人に思われるには。  

僕に嘘がないことに、少なくともそのつもりがないことに、それなりに

意味があるのだろうか。どう書いても、それは表のこととして、演技や

表現に似て、僕がそれをするのを迫られる。そうして、まるで建前と

本音のように二重になった言葉を生産し続け、僕の確信も次第に溶かされ

始めている。

わかることには条件が外と自分のうちに、二重に求められる。それが整って

もその応用である行動のバランスは、ますます複雑さを増して、その調整に

時間を費やす。これでよかったのだろうか、これでは知性と同じ物事の

複雑化へ進む方向では一緒ではないか。専門や権威や、つまり医者や議員や

法律家、薬剤師、警察に頼らなければ、何も決められない僕らは病気になると、

不安ですぐに医者や病院へ行く。これが当たり前だと思えるほどに、僕らは

弱体化してしまったのだが、あまりに当たり前で医者に行くのがなにが

いけないのか、気がつかないし、わからない。

精神や神経では医者にかかるのは危険な分野であるのだが、そういう知識が

ないのだろう。こちらがそれを伝えても、まったく聞く耳をもたない。

向精神薬を処方されて、いずれ生活はもやもやした頭のはっきりしない霧の

中に埋もれてしまったらしい。なにが医学や治療で一般的に確立されたもの

なのか、その知識があればこの病気ならどこの医院、またはどの名医に

かかれば大丈夫とわかるが、その前提なしに、地域の看板だけで医者に行く、

大病院に行く。そういうようにすべてがわかりにくくなってしまった。


心理劇というのは社会的なことではないのだ。ドラマで楽しんでも、信じて

しまう、ああいうことはあり得るのだ、と思いこむのは危険なことなのだ。

同じ製品でも、並んでいれば僕らはCMで名前の知っているほうを選びやすい。

同じような心理劇を見ているうちに、しっかりとそれについて自分の意見が

明確に言えるぐらいでなければ、知らずに僕らは誰でも人を殺す要素をもって

いるとか、を信じるようになる。それと同じくらいにそれを消してしまう

要素があるのに、目を塞いでしまうことになる、と気づかずに。

僕らは信じることさえ、もう万葉集の頃とかとは全く違うことになってしまった。

人を憎んだり、殺意を抱くにはその人が自分に許してしまう、幾段階があり、

そこに気づいていれば簡単に防げるものだが、信じるということの芯がうすれて

しまっている現代では、驚くほどの地域性の意識がよくも悪くも守られている。

それでもそれは自然な防御として当たり前な信頼になっている。

少なくともペンギンのように生存し続けるだろう。ペンギンのユーモラスな

歩き方が多くの動物を絶滅までに追いやった密猟者から守ったのだ。可愛らしい

というだけで、捕獲して食料にするものがほぼいなかったからだろう。  

心理劇は僕らがトイレに入る姿なのだ。きれいなだけではない、確かに。だから

と言って、誰でもトイレに入るから僕らは汚い奴だという、そういう言い方・考え

方は意味があるのだろうか。トイレに入るのは事実だ。だから、それを真実だと

すりかえて、僕らの尊厳を傷つけるのは、なにかおかしな勘違いをしていない

だろうか。社会的な絆や、尊敬を、感謝をそんなはき違えた(真実じみた)事実で

踏みにじってはいけない。こういう風潮は避けられないほど、TVに日常にネットに

あふれかえっている。

なにかするにはあれもこれも、技術的なこと専門的な知識が必要(と煙らされて)

で、する前にあきらめてしまう。逃げるつもりはなくても、犬猫を可愛がることで

自らを慰めたり(そうでない友情もあるが、少ないし、程度が過ぎる)、ゲーム、

趣味、神社めぐり、となにかに頼み込もうとする。ふつうに興味があって、健全に

楽しんでいるという場合の話ではないが、一人になってそれを見つめて、健全だと

思える人は稀有だろう。 それはそれで素晴らしい、うらやめる人だ。


だが、認知症にかかる%、統合失調症にかかる%は癌への羅患率とあまり変わりない

のだ。学校のサラリーマン化した教師が50%が精神科・神経科へ通ったことがある

という現在、僕らの健全とか、健康はどこにあるのだろうか?この単純な問いは、

もう十分に複雑な現実の中に埋もれてしまっている。

どうやって今まではあったように見えたその宝を掘り起こせばいいのか?


ニュースでは貿易の輸出制限で話し合いに来た韓国側が、帰りの空港でこの措置に

抗議して撤回を申し入れた、と。慌てて経産省側がそんな事実はない、と反論した

が面白かった。韓国らしい、というか感情国民らしいというか。彼らは言ってない

だろう、明確には。しかし、会議の雰囲気でこちら側の意見はわかっていたはずだ、

と言いたいのだろう。理詰めの話では反論もできず、引き下がったが、マイクを

向けられれば、僕らからすれば嘘になるのだが、彼らにすればこれは撤回しろ、

というわれらの意向はわかったはずだ。だから、気持ちは撤回を求めていたの

だから、われらにも面子がある、言いたいことを言ったのだ。何しに来たか、

話し合いの前にわかっていたではないか、というのが韓国側の「意見」ではなく、

「気持ち」なのだ。子供と同じ。子供は嘘をついたつもりはないのだ、さっき言え

なかったから、今、(すでに)お互いにお互いが了解しているはずのことを

言ったのだ。日本の、(ま、ふつうに)常識ではめちゃめちゃだが、気持ちは

可愛い。わかってくれという甘えの大前提があって、それがわかってくれれば

いいだろ、そしてわからないのはおかしいだろ!と開き直って恫喝になる。

そういう心情のシステムになっているらしい。そこから彼らの政府のふらふら

した不分明な外交、国民への対応などの部分をみると、僕なんかは納得して

しまう。

だから韓国問題は面子を気にする(中国も)大人の子供をどう扱うか、という

のが根底に来なければならない。と言っても、後ろにはアメリカがいるし・・。

いずれにしろ、内外で、困ったことだ。
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知性への警戒 1. [知の思考]

僕は批判をよくしない。大事な目的があれば、それが批判対象より、

また批判自体より重要だとわかっていたならば、批判はわき道に

それることであり、時に必要だが、わき道にばかり構っていては

目的を見失うからだ。

でも、一度は知性への批判の面を明確にしておくのは必要なので、

それがどういう考え方によるものか、少し試みておきたい。


「内臓が生みだす心」を、心は内臓にある意見派のひとりの本として

読んだが、・・・ ここで再び断っておくのは、基本”本(書物たるもの)”

はあなたの人生の案内役としては、ほぼ役に立たないこと。 また、

本が役に立つのはノウハウ本とか数学、外国語、法律、など社会のために

決められた規則があらかじめ考えられた法則に則って成立しているもので

あって、経験を踏まえなくても実効のあるものだけである。

哲学も心理学も、大体フィフティフィフティ(50対50)で益もあるが、

およそ多くの者に害を及ぼす。

ソクラテスはアテネの街で神からの宣託を受けて、人々がいかに無知で

あるか質問をして、その答えがいかに矛盾しているか説いて回ったが、

若者もこれを本質を理解せずに、弁論だけで大人をやり込めたので、

ソクラテスは青年に悪影響を与えた廉で告発され、死刑を言い渡された。

ソクラテスは知性の人と呼ばれているが、すでにこの時代からその行く末は

暗示されていたのだ。

本の著者は、東京大学大学院医学部を終了した、れっきとした医学博士だ。

それだけでなく、自分の名前の研究所の所長であるし、人工歯根、人工骨髄

の開発における第一人者でもある。

しかし、この人の考え方は情けないのである。「心のありかをさぐる」として

その研究の答えを示そうとしている。

まずはじめに、引用を:-

「心のありかをさぐる研究は意外なところから突破口が見つかりました。

原発性肺高血圧症に冒されていたクレア・シルビアが1988年にアレキシス・

カレルの内臓移植術を発展させた、当時米国でも最も先進的な心肺同時移植

手術を受け、この手記が「記憶する心臓」として1988年に出版されたのです。

 その中に心臓と肺臓を同時に移植されたクレア・シルビアの心が、ドナー

の若い男性の心に替わってしまったことが報告されています。」

この「記憶する心臓」という本をページを3割ほど適切に読み拾ってみた。

そうすると医学博士の「クレア・シルビアの心が、ドナーの若い男性の心に

替わってしまった」というのは間違いだとわかる、そんな結果だった。

だが、ここではいろいろと指摘しておかなければならないことがある。

医学博士の著者は続けて、「筆者のサメを使った系統発生の進化の研究

でも、顔の筋肉と舌筋と心肺は一体となった鰓器に由来する腸管内臓系で、

ここに心が宿ることを明らかにしたちょうどそのときに、このクレアの

手記の存在を知ったのです」と。

医学先生は「心が宿ることを明らかにした」と言っている。この断言は

おかしいので後で理由を説明する。

クレアは心肺同時移植を行って、数か月後生活も落ち着いてから、夢に

青年が現れ、彼の魂と合体する。この高揚した気分は、彼がドナーだ、

という根拠のない確信からだった。それから奇妙なことが起こり、自分の

興味のないものに興味を示したり、飲まないビールが飲みたくなったり、

知らない記憶が蘇ったり、とクレアはそれがドナーからもらった心臓の

せいだと考えるようになる。

まず、クレアという女性は夢に特殊な感覚を持っていて、予知夢を見たり

することもあり、内面への感性がある。手術の前は薬で治療していて、

現実と夢の区別ができないこともあった。その彼女が祈りや瞑想を用いた

健康増進の訓練を受けており、心が精神面に傾くのは自然だろう。

彼女は大変な苦労をして、ついにドナーの名前を聞き出し、その住所を

訪ねて、その家族に会い、家族もその青年の家族への知識の正確さに

驚き、彼女を受け入れる。彼女は正しかった。それで彼女は心臓はただの

ポンプじゃなく、心も移植するものだ、と確信する。

さて、僕もそれは正しいと思う。ただ、それは彼女の場合においてだ。

他にも例はあるのだが、多くはないようだ。小さな事例やあいまいな事例

のほうが多くて、まとめる人がいないのだろう、と。

クレアにはもとから夢への精神特性があり、記憶にコネクトするのに適性が

あった。それがクレアの場合にドナーの情報が驚くほど正確だった理由だろう。

それに彼女が瞑想や祈りの状態が取りやすかっただろうから、内臓の記憶に

たどり着きやすかったのだろう。

しかし、「心が、ドナーの若い男性の心に替わってしまった」わけではない。

クレアはクレアの心(自意識)から変わりつつある自分を、その一部を見て

いたのであり、彼と意見を同居したわけでもないし、彼の心と入れ替わって

しまったのでもない。クレアはクレアだ。だから、若い男性の心に替わって

しまった、という言い方は明らかに、誤りだ。

医学先生が280ページほどの本を、どの程度読んだのかわからないが、この

手記をもってして、心は内臓にあるというのは、早合点にすぎる。

このクレアのような例がクレアほど明確に、あと100件も出ればそれは

内臓に今までの常識ではないものがある、と言えるだろう。それでも

それが心だ、とは言えない。記憶だと言えるだけだ。

記憶は過去の知識だ。生きてはいないから、成長などしない。心は成長

するし、気持ちも考えも変わる。医学先生は心は記憶の貯蔵庫のように

固定して考えているらしい。記憶も確かに、僕らが無意識に少しずつ

変えてしまう側面はあるが、意識して変えているのではない。成長とは

別のものだ。

医学先生の批判を一冊の本でしたつもりはないので、次に彼が行ったと

いう重要な実験について。

「三億年前の脊椎動物に起こった上陸劇の再現実験では、サメを実際に

陸上(ママ)げし、陸棲の脊椎動物への体制の変化を検証しました。

すなわち、水中で鰓呼吸をし、血圧が極めて低いサメを陸上げすること

により、のたうちまわって血圧が上昇すると、鰓で空気呼吸ができるよう

になるのです」この驚くべき報告は、「このように脊椎動物の各進化の

ステージでは、突然変異が起こったのではなく、重力や流動電位などの

エネルギーや、化学物質によって細胞の遺伝子が発現し、たとえば、

軟骨が硬骨化し、骨髄造血巣などが獲得できたのです。これは、行動形式

が代々伝わることでからだの形の変化が生じる、という用不用の法則の

正しい解釈をも検証したことになります。」

という、とんでもなく重要な結論を述べているが、その実験について

のひとつの有効な結果からだけで、かなり雑な形而上学や進化学、精神に

ついての推論を引き出している。根拠はサメの実験だけというのはあまりに

貧弱ではないか。サメがあらゆる動物の進化の代表だとでも言うつもりなの

だろうか。この人の重力や用不用の法則への着目は面白いし、僕の考えも

含んでいるので、賛成したいが、なにせ根拠が少なく、論拠も納得いくもの

ではない。いくどころか、概念だけを弄ぶように、机上の空論を振りかざし

ているのに気づいていない。

「重力対応進化論」という進化論も出しているので読もうかと思ったら、

そのアマゾンの書評で、論拠も示さず一方的な結論で、もっとダーウィンの

進化論のように多くの例を挙げてください、もっと勉強して、というような

ことが書かれていて、あ、同じような酷評がされている、と思った。これで

は読む必要がないだろう。

この医学先生はサメの実験で幸運な発見に恵まれて、その部分についての

医学的技術的な開発ができ、スタッフにも恵まれて、堂々と好きなことを

書いているのだろう。その道の権威だというから、周囲では誰も表立った

批判などできないのだろう。

というわけで、国立大学は知性の殿堂だが、学歴があっても、どんなに多く

の本を出していても、アマチュアからも書いてることはおかしい、という

先生はいる。心についての真剣な経験が訪れるように願う?しかないのか。


「内臓に心はあるのか」については、今回は見送った。
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ミミズさん、その方向が正しい [謎]

ある日、公園のベンチに坐っていた。この公園は住宅やメイン道路から

離れていて、真ん中に丸い広場がある。そこに多少の砂利道が楕円形に、

800メートルのトラックで、ある。よくマラソンする人や、歩き運動の人が

利用している。広場は芝生で、そこには太い立木が数本。空がよく見える。

公園の周囲は公園の樹木ばかりの林が見えるばかりで、外の世界と区切られ

ているので、郊外の田舎の雰囲気もある。

夏の頃だろう。陽射しが強かった気がする。トラックの縁にベンチが5つも

あったろうか、そのひとつに僕はいたのだが、暇なので蟻とか、草の間に

いる昆虫を観察していた。

トラックは幅3mくらいか、時々、競歩している人が回って来た。

すると、こちらの草からミミズがトラックに這い出しているのを見つけた。

ミミズは乾燥に弱い。長時間日に当たっていたら、死んでしまうだろう。

トラックは砂利と固い土だから、ミミズは戻ってくるか、向こうの広場の

芝生に逃げ込むしかない。

ところが、理由は忘れたが、向こうの芝はミミズが入れない事情があって、

探してみると、一か所だけ土が現れて、そこからなら芝生にも潜り込めそう

だった。しかし、ミミズには目はない。人間ほどの高い視界もない。

教えても人の言葉は理解しない。と、見ている間にも、ミミズは向こう側へ

と移動を速めている。これは助からないぞ、といって助ける義理もない。

彼が向こうの芝にたどり着けなくても、運命的なことだろう。

そこで僕は彼を応援することにした。と言って、声をかけても無駄だ。

心で呼びかけてみたのだ。

彼は辿りつけない方向を向いて、斜めなので時間がかかる方向を選択して

いた。そこで「おい、方向が違う。もっと右に方向を変えるんだ」と

黙して声をかけた。

すると、僕も信じていなかったのだ、ミミズが言うことを聞く、などと

いうことを。しかし、ミミズはやや右に首?を曲げて進んだ。

それでも足りない。トラックの真ん中あたりまで来たが、もっと右だ。

「もっと右だよ!」

今度は驚いたことに、方向転換をしてはっきり右に向いた。

これには興奮してしまった。もう指示する必要もなく、その土のある

窪みに向かっている。もう感心してしまって、なんと言っていいか

わからない。  

窪みの手前で少し迷うようだったが、ミミズはそのまま窪みから芝生に

紛れて見えなくなってしまった。

これはほんとうにそういう経験があるなしの問題で、信じるかどうかの

問題ではない。例えば、毎年一回は北極海に行く冒険家が、或る時

ボートで出かけたが流氷の間で方向を失ってしまった。周囲は真っ白だ。

どこがどこだかわからない。途方に暮れていると、小アザラシたちが

ボートの周りに来て、それから一つの方向に泳ぎだした。その間も

首を出したり引っ込めたり、まるで「こっちにおいで」と言われて

いる気がしたという。それでついて行ったら、元の基地の近くまで

案内された、という話をTV番組の徹子の部屋で話していた。

僕はそれを「信じる」のではなく、「疑えない」のだ。動物に特別な

感覚があるのは、世界でいろいろな不思議な話があってわかっているが、

眼も耳もないミミズに人の指示を感知する能力があるか?と聞かれたら

「ないだろう」と答える。答えるが、あの公園の事実は説明がつかない。

どうして僕の指示が伝わるということが起こったのか?

このことに結論を考えるのは早すぎるだろう。だが、僕にはミミズが

特殊な感覚で、土のある方向を目指したとは思えないのだ。なぜなら、

僕が指示した時にだけ、彼は方向を変えたから。

ともかく、この謎は今も謎のままだ、とても楽しい経験としての。
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雑感:魚の謎 [観察]

雑多な日記も書いてみよう。

なにをしても謎は増えるばかりで、少なくなることはない。

観察と着眼点が豊富になればなるほど、そう思う。

釣りでもそうだ。魚たちの知恵というものを想定してしまう

ことに遭う。島で堤防で釣りをすることはあまりない。

リール竿でやや遠くに投げないとポイントがつかめない気が

するので、新しくリール竿を買う気がしないから。

岩場で釣りは楽しめるので、誰も来ない入り江近くで

ひとりで釣りを楽しむ。堤防ではもっぱら観察するだけだ。

そこでもかなり大きな魚が堤防の近くまで来るので、今度

釣り糸を垂らしてみようかと、思うが見ているうちに気が付く。

どうもそこにいる数十匹の小魚の親か世話係のようなのだ。

僕が見ていると、底に沈むように沖へ行ってしまうかのよう

だが、実際にはすぐ戻ってきている。

小魚の様子を伺ってなにか支持しているのだろうか、と思う。

魚が子供を教育する姿は見たので、彼らは僕らが思うような

バカではない。

それは有川港の端の堤防で釣り糸を垂らしたとき、透明度が

あり、魚がエサに近づこうとしていたので、これは釣ったなと

こっちのものだと。ところが、その魚より少し大きな魚が近づい

て来て、その魚は停止した。大きいのに遠慮したから、大きい

のがエサを横取りするのだろう、と思った。

大きいのはエサにギリギリ近づいて、それから離れると、

その小さいほうの魚に近寄った。そして、2匹でエサから少し

離れたところを一周回って、去ってしまった。

これをどう解釈するか。僕には親が子にこのエサには食い

ついてはいけない、と指示したようにしか思えなかった。

見える魚は釣れない、という格言もあるが、親の教育下の

魚も釣れない、という格言もつくってよさそうだ。

堤防の小魚だが、数十匹いるのだが、これが不思議なことに

ペアを組んでいるのだ。2匹が並んでゆっくり泳ぐのだが、

止まっているのも2匹で並んで止まっていて、全部が2匹で

行動しているのだ。あまり大きな動きはなく、堤防から離れ

ないが、おかしくないか?親の指示でもなければ、ペアを

組むという行動は取れないのではないか。もしもそうなら、

彼らはそういう交信をして、或る程度概念的な指示を理解

することができる、と言えるだろう。

側溝の大きくしたような川があるが、底はコンクリで平ら

なので棲みつく魚はいないが、クサフグやクロと地元で呼ぶ

メジナの子だろうか、他にも満ち潮とともに小魚のグループ

が上流へ入ってくるが、必ず一度はその親くらいの大きさの

魚が数匹入ってくる。これらのグループはみな一緒で団体

行動をとる。魚に子育てのある仕組みや共通の育てる

過程があるのは、間違いないことのように見えた。

クサフグは中くらいになると、4,5匹で大きなのの後に

ついて堤防を長く入り江のほうまでヘチを家族のように

泳いでいる。それでなのか、夕方にクサフグが釣れ出すと

もうクサフグばかりになる。彼らは鋭い歯を持っているので

平気でエサを針ごと飲み込んで、糸をかみ切ってしまう

のだ。クサフグは合わせが遅いと、飲み込まれるので

針を持っていかれ、仕掛けをそこだけ付け直ししなければ

ならない。で、フグが釣れると、ヤバイ、となる。

だが、フグは背びれなどに針もなく、手で持っても刺ささったり、

痛いことはないので安全は安全だ、食べなければ。

ま、たいてい3本は針をもっていかれて、10匹くらいで

釣りをやめることになる。ただ、フグに交じって他の

食べられる魚が釣れることもある。なんにせよ、あまり

歓迎できない魚だ。よく泣く、愛嬌だ。


フグ釣れて  ふてくされるは  夕日かな



あと、その針を口の中に入れて、引っかかっているはずの

魚なのだが、針のついた魚を釣った経験は一度もない。

たぶん、釣り人は誰も経験していないはずだ。彼らは

どうやって返しのある針を口の中から外すのだろう?

魚の社会生活の本は見たことがない。柳田國男が全国

を歩いて民話をお年寄りに聞いてまわり、日本民俗学を

打ち立てたように、全国の漁師・釣り人を訪ねまわったら、

魚の社会学の本が書けるのかもしれない。柳田が初めて

やったように、まだ始めた者がいないだけなのかもしれない。

魚.png
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時間について、再び? [観察]

時間は非存在か、という題の本があったと思うが、どうだろう?

時間がそこら辺に落ちていないのは確かだ。今日の時間は痩せているね、

とかの声も聞いたことはない。

まず時間のそれについての前に前提条件を決めておこう。僕らの何かに

ついての感覚がある時、その感覚の出どころは尋ねないでおこう、という

ものだ。そこから疑ってしまうと、なにも進まない。

時間への感覚がふつうに正しいものならば、時間はないと言える。非存在

というわけだが、非存在というのは「存在している可能性をにおわせる」

ので正しい言い方ではないだろう。

大事なのは「ない」というあり方になる。いかに「ない」と言えるか。

そうすれば僕らの時間感覚はただの錯覚になる。それをうまく感じれば

いいことになる。

では、どうなるか。まず時間は物質にしてもなんにしても、或る質を

持っていない。数字と似ている。「1」がどこにも落ちていないし、

これが「1」だと1に関することはそれを示せばすべて当てはまる、

という「1」は現実世界のどこを探しても出てこない。ただ、数字は

印刷されたものや看板など、液晶画面など目に触れる機会は多い。

ために社会での市民権を得ている。まず学校で教わるし、計算は

この世で生きるのに最低限、必要な技術だから。

時間を測るものは時代によって変わった。最近までは水晶の分子運動

を振り子のように応用して、秒を決めていたとか。現在はもっと

微妙な振動を利用しているらしい、素粒子だろうか。

僕らが時間を知るのは、すべて運動による。時間という間隔はどこ

にもないからだ。時計なら針の指す方向と針の運動である。デジタル

なら液晶の数字が一定の感覚で数字が変化する。それも電子運動や

数字のパネルをめくるモーターなどの動力による運動だ。

太陽が昇って沈むように見えて、一日を感じるのは見ているのは

太陽の動きや位置であって、時間というものではない。

100m走で世界記録が出ても、ランナーの姿は見たが、その

走る運動は見たが、時間は見たことがない。これが北極や南極に

行けば、半年は太陽が沈まない、または出ない、という白夜などが

見られる。僕らは時間の感覚を少し失うだろう。明日がいつ来るか

わからないからだ。

もしも、今に時間的な間隔という、まさに時間のことだが、ものが

あれば、放たれた矢は的に当たらない、という事態は正しく存在する

だろう。それは矢を放つと、的に当たるまでにその半分の距離に

到達するまでに半分の時間がかかるから。そして、半分に達したら、

次の半分の距離の半分に達するにも、4分の1の時間がかかるから、

という具合に半分に達するまでに半分の時間がかかるから、そして

常に距離には半分の距離があるのだから、矢はその微妙な的の手前

で止まってしまうように見える、という問題だ。時間が存在するなら

この事象はあり得ることになる。

実際にはあるのは運動だけだ。だから、矢は放たれると、的に当たる

まで止まらない。これは現実に合致する。だから、「現実が間違えている」

か、「時間がないから」のどちらかを選ばなければならない。

僕らは矢が的の手前で止まっているのを、いつも見逃しているのだろうか?


あとは自分を納得させるのに、自分の時間の感覚がただそういう気がする、

というところまで観察をして、よく考えて(確認して)みることだろう。

明日は僕らがなにかの数字をめくったりしない限り、僕らはその日になった

と意識できない。それは今も「今は今だ」という感覚を取り戻すことかも

しれない。年月日の数字は僕らが約束事として、自らで決めたものだ。

だから、カレンダーの1月1日は来るが、明日はその日が来ても、明日は

「明日」なのだ。どこにも行かないし、来たこともない。
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中間で1と6 [報告]

さて、なんでもいいから書くように求められているが、書く決心

がつかない。変な話だ。誰が求めていると言うんだ。

それは進行役である僕自身だが、なんでもいいと、なにを選べば

いいのか、かえってわからなくなる。

(表題の「1と6」は、中間経過を10とすると、山勘で2から5を抜かして、

1と6を報告した、ということだが。)

心の発生も頓挫していると書いたが、実際は進んでいて、どうまとめるかで、

迷っている。すそ野がかなり広いので、資料を読む気もなくす。その気に

なれば1日10冊も可能だろうが、その気になれないのが、僕の気まぐれの

悪い癖だ。今回は時間的に中止に追い込まれて、闇からの回復を1か月近く

待っている。頭はもう抜けた。だが、集中して書くには体力・気力だけでなく、

芯から健全にならなければ総合としての力を統一できない。

わかっていることを何でも書けばいいのなら楽だが、実際は対象者は

絞られる。病名もわからない患者に手当たり次第に薬を、または一つの

哲学なり、思想を薬として処方する医者はヤブ医者だろう。

心の発生とその対応は、ブッダ・孔子・ソクラテスが奇しくも、一定の

パターンで対応している。その後の歴史もそれぞれで同じような衰退を

たどっている。

それは自我の発達と知の展開で一致してもいる。これは道具から文明へと

進展した知の成長と同一のパターンであり、同じやり方だということ。

物質に対しては科学的にそれは成功裡に見えるが、結果は混乱している。

また、精神に関しては、演繹・分析の推理的思考でこれも混乱よりも

混沌としてしまっている。精神病の原因がどの時代の秀才も天才的な人でも

なにひとつわかっていない。向精神薬はある筋肉の部位をこわばらせたり、

人を朦朧とさせてしまう。統合失調症や知的障害者の世話でこの眼で見てきた。

貴重な経験だった。

では、何が悪かったか。なにも悪くない。僕らはよくなる、とはどういう

ことか、なにも統一した見解を持っていないし、持てない。そういう

ように僕らが体も心もその仕組みができているということを通してしか、

これからを考えることはできない。まずその認識に達することが優先で、

必須になる。

とりあえず、中途なことしか、今は言えない。申し訳ないが ・・・。





*とりあえず、精神の危機は脱出したことを報告。
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サボテンの花と未来 [花]

我が家のサボテンの花が咲いた。

毎年恒例になっているが、はじめのサボテンは20年も前の1本だった。

それは15cmにも育ったのか、忘れたが、多少の子供を残して枯れ、

二代目は同じように25cmになったのか、多くの子供がいた。

その中で1本だけひときわ育ったのが、今の1本だが42㎝には伸びている。

子だくさんだが、このサボテンは親の種(の遺伝子?)を1本に絞っている

ようで、兄弟のように同時に大きくなるサボテンの子がいない。

なにか法則があるのだろう。もう胴体に枯れ始めが見られるが、なかなか

世話をしないので枯れ果ててしまうかもしれない。

サボテンの花は1日半で萎れてしまうので、その日のうちに撮影しないと

もう遅い。

IMGP0006 (2).JPG 

サボテン(2).png 

この世は弱い者から、つまり感受性のない老いる者、敏感な障害者、病者から

反応する。彼らは地震を予知する、しかも自身では無意識で知らない者たち

なのかもしれない。心は逃げずに戦い、体は安全に逃げ、方向は子供たちの

未来に。そうなのかもしれない。




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